■ 令和6年(2024年)11月12日(火)校外学習 伊吹山文化資料館見学 (米原市)
講師・案内:滋賀民俗学会 理事 粕渕 宏昭 氏
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① 伊吹山文化資料館(1) かまどや石臼などが展示されています。 左には洗濯板やたらい、中央奥には五右衛門風呂も見えます。 |
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② 伊吹山文化資料館(2) むしろを編む機械のようです。 床には、石臼やわら叩きなどの道具が置かれています。 |
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③ 伊吹山文化資料館(3) 中央よりやや右に便所の模型があります。右下は、下肥運搬機の模型です。 |
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④ 伊吹山文化資料館(4) 囲炉裏のある家での昔の生活風景です。 けん玉、お手玉、竹とんぼなど昔の遊び道具も展示されています。 |
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⑤ 伊吹山文化資料館(5) 木かごのほか、火鉢やあんかなどの暖房器具が展示されています。 右下には、粕渕先生が「湯湯婆」とも書くと仰った湯たんぽもあります。 |
■ 令和6年(2024年)11月26日(火)校外学習 御座所(大正天皇宿泊施設)等見学 彦根東高等学校内 (彦根市)
講師・案内:滋賀民俗学会 理事 粕渕 宏昭 氏
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① 大正天皇御座所(1) 大正6年(1917年)湖東平野において陸軍特別大演習が行われた際に、彦根中学校(現彦根東高等学校)に大本営が置かれました。 その時の大正天皇の宿泊所として御座所が設けられました。御座所の正面です。 |
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② 大正天皇御座所(2) 御座所の裏側になります。以前は大広間など内部の見学もできましたが、現在は老朽化のため内部を見ることはできませんでした。 |
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③ 大正天皇御座所(3) 奥の方に御座所内の便所があるそうです。 |
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④ 大本営碑 御座所の裏側の庭に「大本営碑」が建っています。 |
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⑤ 大銀杏(1) 彦根中学校(現彦根東高等学校)教師平瀬作五郎が明治30年(1897年)に世界的発見となった銀杏の精子発見の端緒となった大銀杏。当時の樹は昭和46年(1971年)に枯死しましたが、平瀬作五郎の功績を讃えるためこの大銀杏が植えられています。 |
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⑥ 大銀杏(2) 昭和62年(1987年)に創立百周年記念として建てられた碑です。(写真⑤の粕渕先生の後ろにある碑の拡大写真です。) |
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⑦ 初代校長外村省吾顕彰碑 彦根学校(現彦根東高等学校)開校初代校長外村省吾を讃えるため平成8年(1996年)創立120周年記念として建てられた顕彰碑です。 |
■ 令和6年(2024年)12月24日(火)校外学習 荒神山古墳とその時代 〔彦根市〕
講師・案内:柏原宿歴史館 館長 谷口 徹 氏
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① 荒神山自然の家にて 午前中、荒神山自然の家において、谷口先生から荒神山古墳の特徴などを学びました。 |
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② 国指定史跡「荒神山古墳」の案内看板 荒神山古墳の概要を記した彦根市教育委員会が設置した案内看板です。 この辺りまでは遊歩道のような道です。 |
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③ 尾根頂部を目指して 尾根頂部にある後円部を目指し、小雨が降る中落ち葉が積もる道なき道を登っていきます。 |
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④ 荒神山古墳の後円部(1) 前方後円墳である荒神山古墳の後円部に到着です。 |
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⑤ 荒神山古墳の後円部(2) この下に縦穴式石室があるとの説明を谷口先生から受けました。 |
■ 令和7年(2025年)1月7日(火)校外学習 街道と宿場(柏原宿歴史館・中山道柏原宿) 〔米原市〕
講師・案内:柏原宿歴史館 館長 谷口 徹 氏
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① 柏原宿歴史館(1) 江戸期柏原宿をメインテーマに、その資料を保存・展示するとともに、周辺の文化遺産の情報発信拠点となっています。 講師の谷口徹先生が館長をされています。 |
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② 柏原宿歴史館(2) 数多くの福助人形が展示されていました。 福助人形は、柏原宿の伊吹もぐさ本舗「亀屋左京」(創業350年)の番頭をモデルに作られたと言われています。(福助人形のルーツはこれ以外にも諸説あるそうです。) 46期地域文化学科ホームページのトップページにも柏原歴資料館展示の福助人形を掲載しています。 |
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③ 柏原宿歴史館(3) 館内ビデオで中山道柏原宿について予習し、いざ出陣! |
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④ 旧柏原銀行本店(1) 元村長の山根佐太郎が地元の有力者に働きかけて、明治34年(1901年)自宅別棟に柏原銀行が創立されました。 |
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⑤ 旧柏原銀行本店(2) 柏原銀行は、昭和18年に滋賀銀行に合併されるまで地元の産業の振興を支援しました。 |
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⑥ 道標やくしみち 享保2年(1717年)に建立され、漢字、変体かな、ひらがなの3書体で刻まれている西薬師(泉明院)への道しるべです。 |
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⑦ 柏原宿本陣跡 参勤交代の大名、公家や旗本などが宿泊したり休憩するために設置された本陣の跡です。 皇女和宮が徳川家茂と婚姻のため江戸へ向かう際にここに宿泊されました。 |
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⑧ JR柏原駅前にて 雪を戴く伊吹山をバックに46期地域文化学科28人全員が谷口先生を囲んだ記念の一枚です。 |
■ 令和7年(2025年)3月25日(火)校外学習 但馬太郎治こと薩摩治郎八ゆかりの地豊郷を歩く 〔犬上郡豊郷町〕
講師・案内:旅行作家 西本 梛枝 氏
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① 先人を偲ぶ館(1) 豊郷出身の豪商薩摩治兵衛など豊郷に生まれ全国で活躍した先人達を讃えるため、平成9年(1997年)に開館しました。 外観は、二代目薩摩治兵衛が寄付したフランス・パリ大学都市日本館をモチーフにしたものと言われています。 |
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② 先人を偲ぶ館(2) 豊郷病院を設立した伊藤長兵衛、豊郷小学校の建設に寄与した古川鉄治郎、一代で巨万の富を築き「木綿王」と呼ばれた薩摩治兵衛、その孫でバロン(男爵)サツマと呼ばれた薩摩治郎八、伊藤忠・丸紅の創始者伊藤忠兵衛などの遺品や関係資料が展示されています。 |
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③ 薩摩治兵衛記念館(1) 明治20年に新築された旧豊郷尋常高等小学校本館で、円柱に支えられたバルコニが特徴的な擬洋風建築となっています。 |
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④ 薩摩治兵衛記念館(2) 内部には、初代・2代薩摩治兵衛、そして、獅子文六著「但馬太郎治伝」の太郎治のモデルとなった薩摩治郎八の活躍を記したパネルや写真が展示されています。 |
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⑤ 豊郷小学校旧校舎(1) 豊郷町出身の丸紅専務古川鉄治郎が私財の2/3に相当する60万円(現在の価値で数十億円)を寄贈して昭和12年(1937年)に豊郷小学校が建設されました。米国人建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズの設計によるものであり、「白亜の教育殿堂」「東洋一の小学校」として町民に愛されてきました。 |
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⑥ 豊郷小学校旧校舎(2) 階段の手すりには、うさぎとかめの真鍮像があしらわれています。 イソップ童話のウサギとカメの話を元に作られており、この写真の1階の手すりでは両者がスタートラインに立っていますが、階段の途中にはゆっくり登るカメが、階段の踊り場では余裕を見せて寝ているウサギが、そして2階の手すりには先にゴールしたカメがあしらわれています。 |
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⑦ 豊郷小学校旧校舎(3) 講堂です。高い天井と採光を考えた高窓、それに前にいくほど低くなる傾斜がついた板張りの床と木製の長椅子。教会を思わせるような雰囲気です。 |
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⑧ 豊郷小学校旧校舎(4) 豊郷町内には、明治43年(1910年)に完成した日本で最初の蒸気機関動力ポンプによる地下水汲み上げ施設である「龍ヶ池揚水機場」があります。令和6年(2024年)に世界かんがい施設遺産に登録されました。 旧豊郷小学校内には、同揚水機場で当時使われていたイギリス製の蒸気機関動力ポンプが展示されています。 |
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⑨ 伊藤忠兵衛記念館(1) 伊藤忠兵衛記念館は、伊藤忠・丸紅の創始者、初代伊藤忠兵衛の100回忌を記念し、明治13年(1880年)に建てられた初代忠兵衛の旧邸に伊藤家の愛用の品などを展示するために開設されました。 |
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⑩ 伊藤忠兵衛記念館(2) 奥の間です。初代忠兵衛のレリーフや二代忠兵衛直筆の掛け軸などがあります。 |
■ 令和7年(2025年)4月22日(火)校外学習 中江藤樹のふるさと高島市安曇川と高島を訪ねる 〔高島市〕
講師・案内:旅行作家 西本 梛枝 氏
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① 乙女ヶ池 万葉の時代は「香取の海」と呼ばれる琵琶湖の入江でした。その後は大溝城の外堀として利用されましたが、現在は、散策や釣りを楽しむことができる内湖となっています。昭和30年代には真珠の養殖もされていました。柿本人麻呂歌集に収められている「大船香取海慍下何有人物不念有」(大船の香取の海にいかり下ろしいかなる人か物思はずあらむ)の万葉歌碑があります。また、池の真ん中にある太鼓橋は、NHK朝の連続テレビ小説「ごちそうさん」のロケ地にもなりました。 |
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② 大溝城跡(1) 本丸跡 大溝城は、明智光秀の縄張りにより天正6年(1578年)に築城され、初代城主は、織田信澄(信長の甥)でした。今は野面積みの石垣が残るのみですが、当時は、対岸の長浜城、安土城、南の坂本城とともに琵琶湖を囲む重要な拠点であったことがうかがえます。なお、童門冬二著「小説中江藤樹」に出てくるように、中江藤樹(与右衛門)の祖父中江徳左衛門吉長は、第三代城主加藤光泰の時に家臣となっています。 |
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③ 大溝城跡(2) 天守台跡 写真②大溝城本丸跡案内板の左横石段を登るとすぐに天守台跡に至ります。城は解体され水口岡山城(現甲賀市)に移築されました。 |
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④ 大溝陣屋 総門 江戸時代に大溝藩主分部(わけべ)氏によって整備された「大溝陣屋」の正門にあたるのが「総門」です。現在の門は、宝暦5年(1755年)に修理された時のものとみられるそうです。 |
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⑤ 大溝陣屋 大溝の古式水道 分部氏は、総門から南側に陣屋や武家屋敷などの武家地を、北側を町人地として区画しましたが、町人地では酒造業をはじめ様々な商いが行われました。また、飲水のため上水道(古式水道)が整備されました。写真の左が山水で武家地に引かれ、その右隣が湧水で町人地に引かれました。所々にタチアガリと呼ばれる施設を作り、各家に引き入れられました。上水道が整備された現在においても古式水道は地域で利用されています。 |
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⑥ 町割り水路 城下の各町内には豊富な生水を有効に利用した水路(中水・下水)を配し、生活と防火に備えた用排水として利用されました。 |
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⑦ 陽明園 陽明門 陽明園は、王陽明の生地中国浙江省余姚市と日本の陽明学の祖中江藤樹の生地である旧安曇川町(現高島市)との友好交流を記念して平成4年(1992年)に建設された中国式庭園です。「陽明門」に取り付けられている扁額の題字は、余姚市文聯名誉主席・胡丁氏の揮ごうにかかるものです。 |
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⑧ 藤樹神社 藤樹神社は、近江聖人中江藤樹を敬慕する人々の協力により大正11年(1922年)に建てられました。境内には、陽明学に共鳴し、藤樹神社の創立に尽力した渋沢栄一の肖像石碑もあります。 |
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⑨ 中江藤樹墓所(玉林寺) 天台真盛宗玉林寺の門前に、中江藤樹の墓所があります。左に慶安元年(1648年)41歳の若さで亡くなった中江藤樹の墓が、その右に藤樹の母の墓、そして、この写真の右端に少ししか写っていませんが、藤樹の三男常省の墓が建っています。いずれも儒式の墓にならい土盛りがあり、その前に墓碑が建てられています。 |
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⑩ 藤樹書院(1) 門 藤樹書院は、中江藤樹の屋敷地に開かれた私塾で、慶安元年(1648年)に藤樹が生涯を終える半年前に門人達によって創建されました。 |
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⑪ 藤樹書院(2) 外観 明治13年(1880年)に村の大火により焼失し、2年後に仮の講堂として再建されたのが現在の藤樹書院の建物です。 |
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⑫ 藤樹書院(3) 内部 藤樹書院の内部には、藤樹直筆の「到良知」の書や藤樹愛用の文机など藤樹の遺品・遺物が展示されていますが、明治の大火の際に、村人が自宅が類焼する中でも藤樹書院の重宝を持ち出して守ったそうです。また、奥の祭壇には藤樹をはじめ中江家の神主(しんしゅ。儒教の位牌)が並んでいます。 |
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⑬ 藤樹書院(4) 「到良知」額 「到良知」(良知に到る)について、「小説中江藤樹」で著者の童門冬二は次のように書いています。 「良知というのは人間の心の本体である。したがって、だれもが生まれた時から完全な形で保っている。…この良知はすばらしく明快で適切な働きによって人間を正しく導く。」「良知には邪魔者がある。邪魔者というのは人間の欲求の情だ。…人は心から欲求の情を取り除かなければならない。その方法としては、自分の意を誠にすること以外ない」これがすなわち、「良知に到る」ということである。 なお、額の「知」の文字が「良到」より小さくなっていることについて、「藤樹書院」の上田藤市郎先生からは、①「知」を小さくすることによって「書」として引き締まること、②「知」より「良到」が大事ということを表わしているのではないかということを伺いました。 |
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⑭ 藤樹書院(5) 「五事を正す」額(貌・言・視・聴・思) 藤樹の教えの一つに「五事を正す」という言葉があります。これについて、童門冬二著「小説中江藤樹」の巻末「解説-今、改めて中江藤樹に学ぶ」において、國松善次元滋賀県知事は次のように書いています。 五事とは、「貌、言、視、聴、思」を言い、「普段の生活やまわりの人々との交わりの中で、一つ、なごやかな顔つきをし、二つ、思いやりのある言葉で話しかけ、三つ、澄んだ目で物事を見つめ、四つ、耳を傾けて人の話を聴き、五つ、まごころをこめて相手のことを思いやることが、良知を磨き、良知に到る大切な道」だというのです。 |