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<発表会>
発表日 2024年1月11日(木)
場所 社会福祉センター介護研修室
今、お城がおもしろい⇒大地に刻まれた歴史遺産【戦国時代が体験できる】ということで、城郭研究について昨年9月からの講義に始まり、4回に亘る校外学習を中井先生より受講いたしました。
これを受けて、地域文化学科の学生一人一人より本日の近江の城を題材として報告会が行われました。
又、発表する皆さんの報告書作成のレベルが入学した頃とは格段に上げっており、今までパワーポイントを使ったことが無い方がそれを生かして発表されていることに驚きました。
レイカディア大学は、シニアになっても、まだまだ成長できることを教えて頂いているのですね。
発表者 (ニックネーム) |
タイトル | 発表内容の要旨 | 発表時の様子 |
ミッチーJr. | 「小よく大を制する」宇佐山城の戦い | 自宅のある湖西の宇佐山城を訪ねました。 1570年に織田信長が京都への交通の要衝を固めることと琵琶湖の水運支配のために森可成に命じて築城させました。 この城を森可成らの少ない兵力で浅井・朝倉の大軍の攻撃から守り抜いたことが後の歴史に大きな影響を与えることになりました。 |
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あきちゃん | 永原御殿と芦浦観音寺 | 「永原御殿」は家光上洛の際、拡張されたがその後は入札、売却され、その一部が芦浦観音寺の書院となる。令和になり国史跡となり、史跡公園の計画が進んでいる。同じ国史跡の「芦浦観音寺」は老朽化が進み、手厚い保護が待たれている。 | |
つかちゃん | 佐生日吉城を歩いて | 観音寺城の出城である東近江市の佐生日吉城を歩きました。後藤但馬守を城主とする単郭の小さな城跡ですが、南側にある50mほどの石垣は圧巻です。築造された500年前に思いを馳せました。
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Yoshiさん | 日本の城と世界の城について一考察 | 世界の城にも興味が湧き調査をした。日本は単一民族・国家で支配層だけの争いで一般庶民にとっては上が変わるだけ。世界の城は負ければ民族の滅亡となり、都市全体を城壁で守る強固な形で地理的、歴史的観点で城郭の構造は大きく違っていた。 |
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NAKAさん | 坂本城と明智光秀のその後 | 1.なぜ坂本の地に城を築いたか 1)坂本が物流の要衝で延暦寺が実質的に支配していた 2)延暦寺の監視と京への足がかりとして坂本に城を築いた 2.縄張りは一の丸が城郭 3.その容姿は水城で二つの天守閣があった。 4.明智光秀は、その時、有利な地理的位置にいた戦国武将であったが故に本能寺の変を起こした。 |
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長等55naoさん | 城郭としての園城寺探訪 | 度重なる戦乱に巻き込まれながら何度も復活を遂げ「不死鳥の寺」と呼ばれる園城寺を鎌倉末期の園城寺の境内を描いた「園城寺境内古図」をもとに長等山、逢坂山、如意ヶ岳に広がる城郭と見立て探訪する。 | |
奈々衛門さん | 大津・石山の城郭探訪 | 「石山城、大平山城、千町城、平津城」 石山近辺には6箇所のの城跡があり、4箇所の中心に我が家があることを始めて知り、訪ねる機会となった。 3城(石山城、大平山城、千町城)は標高140m~150mの高い位置にあるが、その位置からは4城とも瀬田川両端が見渡せる城砦で興味深い感である。 |
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ミー坊さん | 志賀の陣 壺笠山城址を訪ねて |
壺笠山城に登頂し、城郭の状況を調査した。 元々古墳(円墳)があった所に城を築いた。 山頂の円形平面を主郭とし、その周りは帯郭を配している。また、兵士の溜り場となった小規模な郭郡が段々畑状に10数ヵ所あった。 |
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さっちゃん | 嶬峨城と嶬峨西城について | 自分の住む水口城嶬峨に、嶬峨城と嶬峨西城跡があるので調べた。 嶬峨城は、嶬峨氏の城と伝えられ、元屋敷と山屋敷があった。後に旗本堀田氏の陣屋となった。 嶬峨西城は滋賀ゴルフ内にあり、土塁と空堀が完全に残っている。 |
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住職 | 甲賀の城を見る -甲賀市土山町大野今宿城- |
甲賀土山町には16ヵ所の城館(滋賀には1300ヵ所)がある。数少ない史跡指定以外は開発され、宅地あるいは耕作地となり、ほとんどは民地で城の面影を留めていない。 私が発表する今宿城は平素、利用しているホンダカーズ土山の敷地であって、その北側にほんの少し、土塁、堀跡が伺えた。 中井先生の「近江の城に学ぶ」の縁がなければ、今宿城も他の城郭にも出会えなかったものと考える。 |
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ヒコさん | 大津城 | 豊臣政権下で大津城が築城され、交通・経済の要衝として大津は近畿有数の都市として反映した。 大津の反映に寄与した大津城について調査しました。 |
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I.Mさん | 坂本城 | 幻の城と言われている坂本城について、天主の姿の規定や縄張りの想定について調べた。 城に取り込まれた城下町や港の様子をいろいろと考えるのは楽しい。 |
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こんぺいとう さん |
「水城・膳所城」を訪ねて | 築城から廃城まで城主が度々変わった。最後の本多氏の220年居城となり、明治維新を迎えた。江戸時代天下普請の第一号、廃城(明治6年)後、12ヵ所の門が大津や草津に移築され残存している。 | |
ショーチャン | 瀬田城の経緯 | 自宅の近くに瀬田城跡があることは以前から知っていたが、この発表を機に調査した。 意外と資料が少ないため、苦労した。 城主は山岡氏が代々引継ぎ、1600年に膳所藩の管轄になり、廃城となった。 その後は膳所藩の別荘となり、明治以降は旅館、現在はマンションが建っている。 |
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花さん | 近江山田城 | 草津市立武道館の建設にあたり旧山田小学校跡地から蘇ってきた幻のお城。小さく丸い同心円形の縄張りのお城で鎌倉時代から室町時代にかけての遺構、遺物が発見されているとのこと。 全国的にも珍しい形状のお城であったようです。 |
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あかちゃん | 膳所城について | 徳川家康は関ヶ原の戦い直後(慶長5年10月)四天王の一人井伊直政を石田三成の居城であった佐和山城に置き、次に膳所城を築かせ大津城にいた戸田一西を移らせた。関ヶ原の戦いの勝利によって事実上、天下を掴み取った。 今、膳所城の本丸は膳所公園になっています。 |
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いいちゃん | 唐崎城 | 唐崎城は「太平記三第十七巻」に記述があった。 建武3年、無動寺の麓から琵琶湖岸に沿って空堀二丈、幅約6m、土居を築き二百余りの高櫓、木戸橋を建造した。 新田義貞が足利尊氏から後醍醐天皇を守るために建てた山城であったと思われる。 |
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うのちゃん | 城塞化した寺院、百済寺 | 六角氏とその家臣伊庭氏の抗争により百済寺は焼失した。再建時、自衛のため城塞化した。 一方、百済寺は百済寺樽(近江清酒の発祥)で大きな利益を得、経済的に繁栄していた。城塞化した背景には、これを外敵から守ろうとしていた。 著書に示されていた地図を基に石垣、空堀を探訪した。その規模は大きく、一般のお城と比較してもその防御力に遜色はないように思えた。 |
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おうちゃん | 目加田城を訪ねて | 目加田城は信長の時代に目加田貞政、堅綱、堅政の三代が居城していた。城跡には現在、土塁が残るのみではあるが、公園としてきれいに整備され堀らしき所もある。 目加田氏は落城後、各地へ移り、今も全国におられ、一門の集いをされているとのことです。 |
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sho-san | 膳所城のおはなし | 1.城の位置:築城当時(1600年)と現在地 2.大改修:1662年大地震で損壊、大きく縄張りが変わる 3.初代城主は櫓から転落死 4.関ヶ原戦後、最初の築城、慶長の築城ラッシュ 5.明治維新後、他藩に先駆け廃城 6.余談:膳所神社前和菓子屋さんの美味しい「いちご大福」 |
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きんちゃん | 大溝城(大溝陣屋)について | 1582年「大溝城」織田信長が明智光秀の縄張りで甥の織田信澄に築かせた琵琶湖畔の水城 本能寺の変以降に次々に城主が変わるが、最後の城主は京極高次とお初(浅井三姉妹次女) 1590年廃城となるが、城下はその後、二万石無城大名分部氏の陣屋として存続、本丸跡はそのまま残された。 |
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マグロさん | 我が町の近江八幡市「田中江城(跡)」を散策して | 私が生まれ育ち住んでいる地域にあった中世の佐々木六角方、国人領主永原氏の重要な支城を紹介。遺構は三ヵ所(伝田中江城跡、伝出城跡、近隣の居館跡)に分散し、今は神社、民家、寺院となっている。 (当日、ご欠席) |
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キラさん | 近くの城 坂本城、壺笠山城 |
1300とも数えられる滋賀県内の城、その中で自宅に近い城を再度調べる。今まで関心が薄く通り過ぎてきた場所を興味深く学ぶことができた。 | |
さくらばあちゃん | 青地城址 | 青地城は鎌倉時代から室町時代にかけて青地庄を中心に活躍した青地氏の居城であった。 現在は志津小学校となっているが、周辺には堀切や土塁・空堀等の遺構と城池が残っている。 また、小学校敷地内に本丸後の石碑が建てられていた。 |
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コテヤン | 膳所城 | 膳所城本丸跡は現在膳所公園として市民に親しまれるが、関ケ原の戦いの直 後家康が京都・大坂の守りとして瀬田の唐橋を押さえるために最初の天下普請 として築城させた重要な城。現存する4つの門等史跡を訪ねて、実際に歩いて 江戸時代の膳所藩の城下町に思いを馳せた。 |
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ベルさん | 織田信長と近江衆 | 織田信長の全国制覇への道筋とそれに係わる近江衆の動向をまとめ
近江衆にとって①六角氏・浅井氏の滅亡②山崎の合戦③
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発表会の最後には、これも恒例となりましたが、先生に感謝の意を表す色紙(皆さんの一言を添えて)をお送りしました。
中井先生、お城に関する興味深く、かつ楽しい話を聞かせていただきありがとうございました。
以上