TOP

TopページへTOP

                 レイカディア大学 草津キャンパス               

地域文化学科44期へようこそ

【中井講座のページ】

校外学習、安土城


クラス紹介 基礎講座 選択講座 地域活動 大学祭 交流会 課題学習 その他


<安土城跡の見学>

見学日   2023年11月24日(火)
場所    安土城
天候    晴れ

9時50分に現地(安土城跡)に集合
この日も好天に恵まれ、中井均先生の案内で安土城跡を見学しました。

1.本日のフィールドワーク概要
 織田信長が近江に築城して石垣作りの城を現地のフィールドワークで知ることができました。
 当時の技術の粋を集めて壮大な石垣の城郭と天守を築き見せることで、支配者としての力を示したことが偲ばれました。
 土の城(土塁)から石の城(石垣)への変遷がよく解り、戦国~戦国末期~江戸へと続く近江の城郭進化を知る上で重要なことでした。
 また、豊臣秀吉の館跡など後世の資料からの名称も「伝」として記され、時代考証からの不自然さも説明していただき、興味深いフィールドワークでした。

2.見学の様子
 それでは以下、写真と共に見学、解説の内容を紹介します。

 安土城見学場所(文字をクリックしてください) ⇒ 安土城跡

 なお、筆者の聞き間違い、理解の誤り、知識の浅さなどがあり、正しい表現で中井先生のご説明を紹介できていないかもしれません。
 その点について皆さんからご指摘をお願いしたいと思います。次回以降、修正するようにします。

見学場所  見学の様子  備考
集合
(安土駅、安土城跡駐車場)
安土駅前、織田信長に出迎えていただきました
   

安土城跡での集合
 
 
伝羽柴秀吉邸跡  言い伝えは信長死後100年後の記録に記載されているもので、その真偽は怪しいとのこと

<下段の屋敷跡>
 礎石を辿ると厩跡と推察される
   

 礎石からこの部分に厩の門(潜り戸)があったと推察される
 

<上段の上屋敷跡>
 この場所は、その礎石の配置、数などから書院、玄関、車寄せを含む御殿(公的施設)であったものと推察される

  

 
大手道、石仏 <大手道>
 「大手道」と呼ばれているこの道からは、昔、堀、沼しか見えない。そのことからこの道は大手道ではない。
 天守の西にある百々橋方面に向かう道が大手道であったろうと考える
  

<石仏>
安土城築城時、石材として使用されたもの。多くの石材は近郊の山々から採取しましたが、その中に石仏や墓石が含まれているとのことです。
  
 
大手門道(階段)
沿い
<織田信忠邸跡>
 大手道を上り、左に曲がった場所で三方の道が交わっているその角に織田信忠邸跡があります。
 しかし、中井先生曰く「三方の道が交わるところに屋敷を建てるようなことはしない。これも正しいとは思えない」とのこと
 
   

<重臣屋敷跡>
 「伝織田信澄邸跡」及び「伝森蘭丸邸跡」
 写真すぐ後ろはほぼ崖、このような場所に屋敷は建てられない。これもかなり怪しい、とのお話
 

<黒金門跡>
 この周辺の石垣の石は、それまでの石の大きさと比べるとはるかに大きい。
 城の中枢部の入口であり、権威の象徴ともなっている。
   

 石の大きさは権威、支配の象徴。織田家は戦国大名であり、守護大名ではない。そのため、権威・支配を示すために巨石をいたるところで使用した、とのことです。

・桝形虎口
 黒金門を抜けるとすぐに左へ90°曲がり、また右へ90°曲がる。敵の侵入を防御する場所
 

 
天守跡周辺 <織田信勝四代供養塔>

  

<二の丸下の石垣>
 湖東流紋岩を使用した野面積みで、その隅部は算木積となっています
 算木積みは小谷城には見られない積み方で、安土城以降に使われた積み方ということです
 
  

<仏足石>
 発掘した際に石垣の中から見つかったそうです。階段に使われていた石仏と同じ転用石、いろんな言い伝えはあるようです
 写真右は仏足石向かって左にある階段、写真の右側は昭和の改修、左が当時のままで石段が崩れています
 
  

<二の丸跡(信長公本廟)>
 二の丸跡には信長公本廟がありました。本廟はつい最近改修されたようです
   

 巨石、「信長公記」では蛇石を運搬してと記載されているようですが、この巨石が蛇石であるとすれば、その記載されている内容と比較して小さすぎる、謎のままとのことです
 

 二の丸石垣が激しく焼けた跡、本丸と二の丸が焼けて落城したと考えられます
  

 
本丸跡、天守跡 <本丸跡>
 本丸御殿は檜皮葺で公の場、普段使いの屋敷は瓦葺、近世の城のルーツがここにあるとのことです
 天皇を招き入れる「御幸の間」があったと信長公記に記されているそうです。信長公は天皇を招きたかったのであろうと先生
 

 本丸御殿から天守に移動するための階段(本丸入口)、装飾の目的で笏谷石(福井市足羽山産)が使用されています
  

<発掘調査>
 現在、天守跡北側で発掘調査が行われています。約20年にも及ぶ調査とのことです
  

<天守跡>
 礎石が整然と並んでいるだけですが、この部分は天守の地下にあたるそうです
 この上に五層七階の天守がそびえていたそうです
   

 天守跡にて集合写真
 
 
総見寺本堂跡周辺 <総見寺本堂跡>
 本堂は火災による消失(1854年)、礎石のみが残っています
 城の中にお寺があるケースは珍しいとのこと
 この場所から西の湖が見え、安土城が水上交通の要衝であったことを伺える場所です
 

   
 
 三重塔(甲賀・長寿寺より移築)から二王門(これも甲賀から移築)までの階段、結構な難所です
 「仁王」ではなく、「二王」です
  

 二王門から下った階段、この階段の左右に重臣の屋敷が並んでいたとのこと。十分な発掘調査はされていないようです
 

 この道が城下とつながっている道、先生はこれが大手道であろうと解説されました
 

途中には崖を掘った跡が何か所かありました。岩石(湖東流紋岩)でできた山であり、石垣に採掘したもの
(写真ではちょっと分かりにくいですね)
 

 
城下町 総見寺を出て安土山の西方向へ山に沿って移動するとそこにも石段とその先に城下町がありました
<百々橋周辺>
   

<東家住宅>
 織田信長公は相撲好き、勝った力士に「東」という姓を与えたと言われているそうです
 

<セミナリヨ跡>
 織田信長公庇護の下、建てられた日本で初めての神学校
 周辺の土地名(小字)にキリスト教と関連のある言葉が使われているとのこと
   

本日はこれで終了

授業終了後、課題学習に関して別の見学地に行くグループ、打合せを行うグループなどがありました。
写真は打合せを行うグループです。

 

 
その他 掲載した写真以外で安土城フィールドワークの状況を紹介します。
カルーセル式で自動で画面が映り変わります。

 



ページトップ