43期地域文化学科 選択科目-2(2022年2~4月) 近江の文学、講師;西本梛枝先生  学習内容ページへ  TOPページへ

選択科目のページです。講師の先生毎にページがあります。
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 必修科目-1(2021年10月~2022年3月)  選択科目-1 民俗学、講師;粕渕宏昭先生(2021年10月~2022年1月)  発表会ー1(2021年12月14日)
 必修科目-2(2022年4月~2022年9月)  選択科目-2 近江の文学、講師;西本梛枝先生(2022年2月~4月)  発表会-2(2022年4月21日)
 必修科目-3(2022年10月~2023年3月)  選択科目-3 明智光秀とその生涯、坂本の史跡を訪ねる(2022年5月)  発表会-3(2023年2月13日)
 必修科目-4(2023年4月~2023年9月)  選択科目-4 近江聖徳太子伝承の背景を探る、講師;山本一博先生(2022年6-8月)  
   選択科目-5 近江の城郭、講師;中井均先生(2022年9-12月)  
   選択科目-6 地域コミュニケーション論、講師;上田洋平先生(2023年1,2月)  
   選択科目-7 郷土理解と観光ボランティア,講師;西嶌さん、大野さん(2023年3-6月)  
   選択科目-8 郷土の食文化・郷土料理づくり,講師;清水満里子先生(2023年7月4日)  
   選択科目-9 まちづくり講座,講師;森川稔先生(2023年7、8月)  

 日時   講師(敬称略)   テーマ  内容
 2月1日
AM
 旅行作家・
 西 本 梛 枝
第1回オリエンテーション
 「近江の文学的風土」
・講師から、授業の全体像が説明された。
・近江を5つのエリアに分け、エリアごとの文学作品について説明があった。
・校外学習と発表会の説明があった。
 2月1日
PM
 旅行作家・
 西 本 梛 枝
第2回
近江が関係する文学作品
・近江の文学作品をエリアごとに取り上げ、主な作品のあらすじとその感想が紹介された。
・湖北:井上靖「星と祭」、大佛次郎「宗像姉妹」、小西健之助「海峡の虹」、深田久弥「日本百名山」、谷崎潤一郎「盲目物語」等
・湖東:水上勉「湖の琴」、石川達三「稚さなくて愛を知らず」、平岩弓枝「日野富子」、井上靖「額田女王」、舟橋聖一「花の生涯」、海音寺潮五郎「蒲生氏郷」、井原西鶴「西鶴織留」等
・甲賀:水上勉「しがらき物語」、岡本かの子「東海道五十三次」、森鴎外「小倉日記」・湖南:永井路子「雲と風と」、吉村昭「ニコライ遭難」、松尾芭蕉「幻住庵記」等
・湖西:井上靖「平野シャクナゲ」、童門冬二「中江藤樹」、城山三郎「一歩の距離」、五木寛之「蓮如」等
 2月15日
AM
 旅行作家・
 西 本 梛 枝
 第3回近江の文学的風土
城山三郎『一歩の距離』

・城山三郎の『一歩の距離-小説予科練』がテーマ。
・作品と作品の背景になった現地について詳しく解説があった。また当時の時代的雰囲気や若者の心情まで深い考察があった

 2月15日
PM
 旅行作家・
 西 本 梛 枝
 第4回近江の文学的風土
獅子文六『但馬太郎治伝』
・獅子文六さんの「但馬太郎治傳」がテーマ。
・但馬太郎治のモデルが、実在した薩摩治郎八である説明があった。
・薩摩治郎八の出生地の豊郷や近江商人について説明があった。
 3月15日
AM
旅行作家・
 西 本 梛 枝
第5回 近江の文学的風土
童門冬二
『小説 中江藤樹 上下』
      
童門冬二の歴史感…「歴史を今に活かす」こと
・中江藤樹を書いた理由は、現代社会に欠けている「考える』ことを問いかける
・生い立ち:高島大溝藩士の祖父の養子になり、11歳で儒教『大学』を読む。15歳で伊予大須の藩士。朱子学者と対立。挫折・脱藩・帰郷し処士に。
・王陽明の『陽明全書』から、独自の「陽明心学」を確立する。門下・熊沢蕃山。「致良知」「知行合一」等、明治維新へと日本を変える人物に影響を与える(佐久間像山・吉田松陰・渋沢栄一…)
*地元では「藤樹さん」「藤樹先生」と呼ばれる風土がある。また大洲にもゆかりの史跡が多くある。
・現地を訪れ、その土地に遺されている事象を感じ取る為、次回は高島へ校外学習。
3月15日
PM
旅行作家・
 西 本 梛 枝
 第5回 近江の文学的風土
徳永真一郎『燃ゆる甲賀』
・作家 堤真一郎は毎日新聞・びわこ放送に勤務滋賀を舞台にした歴史小説を執筆。
・この小説は,1842年甲賀・野洲・栗太の農民達が、幕府の不正な検地に対して決起して「日のべ十万日」を勝ち取った『三上騒動』の歴史小説
・時代背景(飢饉・財政難)と陽明学の影響
・三上騒動は、幕藩体制を揺るがしたこと、農民達の働きは、謀反ではなく「正義」として受け入れられ、その法要が今も続く事が他の一揆と異なる
*「自らの大義を歩む」ことを歴史から学ぶ
 4月7日
AM
 旅行作家・
 西 本 梛 枝
と地元のガイドのみなさん
 校外学習
中江藤樹のふるさと高島と安曇川を訪ねる
高島城下町をあるく

(写真左)地元のガイドさん、とても気さくな方でした。
(写真中)大溝城総門
・近くに家老の屋敷があったとか。ガイドさんが「私は家老でなく過労ですわ!」と暫く経たないと笑えないようなギャグが。。。
(写真右)大溝城跡
・先生はお城もお好きでこの翌日は「佐和山城に登る」と言われてました。

・乙女が池。大溝城築城時は洞海と呼んだと。
「それは”どうかい?”とまままたガイドさんのダジャレが。。。
個人的には面白かったですが、ほとんどスルーされてました
・池にかかるこの橋は2013年朝ドラのロケ地で、かのH野昌大さんとAnさんが訪れたことから一時は”出会い橋”と呼ばれたが。。。「今はその意味が損なわれてしまいましたわ」と嘆いておられました。
・昼食は海老フライと海老天というなかなか普段食べられない?組み合わせでした。
 4月7日
PM

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 同上  中江藤樹記念館、藤樹書院、良知館、陽明院など見学  
(写真右)中江藤樹記念館のガイドさんの説明
前もってレイカデイア大のことを調べておられたようです。”顧客を知る”ということはとても大切であると感心しました。ガイドさんは「仕事辞めたらレイ大に入りたい」と仰ってました。
(写真中)良知館にあった中江藤樹直筆”致良知”の掛け軸。
(写真右)藤樹存命の時からあったとされる、屋敷の前の小川にある花壇と鯉
































































 『但馬太郎治伝』のモデル・薩摩治郎八のルーツのある豊郷町を訪ねる
2022年3月1日 校外学習
 西本梛枝先生の第一回目の講義で、獅子文六『但馬太郎治伝』を学びました。

 但馬太郎治こと薩摩次郎八が大富豪になったのは、彼の祖父の働きによるもので、その薩摩治兵衛の故郷は豊郷町は
江戸期以来の幾多の「近江商人」を輩出した地でありました

 『先人を偲ぶ館』『薩摩治兵衛記念館』
から先人の偉業を学び
現在に残る「旧豊郷小学校群』及び『伊藤忠兵衛の旧宅』を見学しました。

○○が日本二の近江鉄道
<なんと①>
運賃は近江八幡⇒豊郷760円!
懐かしい穴あき切符!

豊郷駅前で、”全員出席”の記念撮影
<なんと②>
講師の西本先生は神戸から
集合の1時間も前に着き、
学生を出迎えて下さいました。
 
いざ出発‼ 中山道を行く~
<なんと③>
「先生歩くの早~い!」と後方か
ら驚きの声。先頭は西本先生、旅行作家。
さすが健脚です!
















1. 『先人を偲ぶ館』と隣接する『薩摩治兵衛記念館』 豊郷駅から、歩くこと15分!

                
 
『先人を偲ぶ館』
      先人たちの夢を語り継ごう
豊郷町は、旧中山道が南北に貫いている。情報と文化が交差する地理的条件に培われたこの地から多くの人物が、明治、大正、昭和にかけて近江商人として都市に進出し実業界に飛躍し、名声を四方に馳せた。
 
北海道廻船業「あけぼの缶詰」の祖藤野喜兵衛,  豪商「木綿王」の薩摩治兵衛, 伊藤忠商事&丸紅の伊藤長兵衛・伊藤忠兵衛・古川鉄次郎,  青山商店の青山仙右衛門,  呉服店近江屋の堤辰二郎……
 また
生涯を郷土に終始し、自治・農業の発展・文化の向上など村つくり人つくりに貢献した人々…元持鶴松・古川宗哲・北川嘉平・藤野宗次郎・村岸峯吉・西澤喜三郎…
 
*幾多の先人達は、
郷土を忘れることなく郷土に尽くし、その精神が、また次の時代へと受け継がれて、豊かな故郷=豊郷を育んできたことが感じ取れました。  
                  (当館展示、「はじめに」より一部抜粋)
     『薩摩治兵衛記念館』
  <豊郷小学校の変遷と郷土の偉人 >
 明治6年「成文小学校」 右写真の寺
 明治20年「尋常科至塾小学校」落成
 明治25年3つの小学校が統合されて「豊郷尋常小学校」に改称  薩摩治兵衛は至塾小学校建設や明治41年小学校前道路拡張費用等に多額の寄付をした。
 昭和12年、旧豊郷小学校が新築・移転。この一代目「豊郷小学校」は、学校建築に関わる貢献度から「薩摩治兵衛記念館」として保存されることになった。

 治兵衛は極貧から一代で金巾で巨額の富を築いた

*展示品の中に、寄付を受けた知事から下贈された木杯が幾つも並び、故郷への慈愛が窺えました。その木箱の墨書に「東京市神田区北甲賀町」と治兵衛の住所が記され、小説の中でも、駿河台に広大な屋敷を構えていたと書かれていたことを思い出しました。
 また、孫の治郎八
(小説モデル)は、治兵衛の築いた財産でパリに長く住み、日本学生館(現存)を建てました。その業績が称えられ、「パリ政府から授与された勲章」実物も見る事ができました
 『唯念寺』ここから小学校はじまる
右の2つの館の前方に広大な境内地の立派なお寺がある。行基が奈良時代に創建した。 
明治5年に学制が公布され、豊郷町に初めての小学校である「成文学校」がこの寺に設置された
   

<二代目豊郷小学校> 

   
 <木杯>  

2. 『豊郷小学校旧校舎群』の見学            

次の見学地 第二代の「豊郷小学校」も「近江商人」と大きく関わりがあり、その歴史を学びました。
広い敷地と立派な校舎を3人のボランティアさんに案内していただきましたが、その一人にレイカディア大学の卒業生がおられ、
我々の仲間が卒業後に活躍する
姿とイメージと重なりました。
とにかく校舎は素晴らしく、校庭の古川鉄次郎氏(銅像)は、この小学校の児童に、多くの勇気と希望を与えてきただろうと思います。                       


校舎模型
 
 近江商人がつくった『白亜の教育殿堂』

  昭和12年5月、豊郷は喜びと感激で湧き上がっていた。

 古川鉄次郎は母校に、私財の3分の2に相当する60万円、これは当時の村予算の十年分を寄贈した。
設計は、洋風建築では名を馳せた、ウィリアム・メレル・ヴォーリス
建設・施行は竹中工務店
 校庭の設計は戸野琢磨→日本初のラウンドスケープアーキスト
その施行は五箇荘の”花文造園”

 一流の匠が結実して、「東洋一の小学校」が完成!

70年が過ぎて
「解体」か「耐震補強」か、行政と町民が二分する
2004年に第三代の「豊郷小学校」新築

住民達の「校舎存続」の要求により、法的に「解体」は避けられ

2009年、旧校舎は原型に近い形に復元・保存する

町の交流施設として恒久的に活用できるように
「豊郷小学校旧校舎群」として生まれ変わる


鉄次郎氏は小学校のころ、何をするのも遅くていじめられ子で、先生に寓話『ウサギとカメ』を示して励まされ、コツコツ努力した。その話しに感動を受けたヴォーリスが、階段手すりに、そのエピソードを盛り込んだという。

古川鉄次郎は「必要なものは、どれだけ費用がかかっても構わない」と…

敷地12000坪、
直線100m走れる広いグランド
テニスコートあり、プールあり
講堂あり。
別棟の図書館あり。
郷土の実践教育の為、敷地内に水田もあり

白鷺が羽を広げたような洋風建築


<子供達への思いの詰まった先進的な設備>

 
全館スチーム暖房…
弁当を温める台まであり。
水洗トイレ・内線電話
中学校のような充実した特別教室(3階)
幅広い木製張り廊下は温かい
  古川鉄次郎 銅像
        &
「ウサギとカメ」
しんちゅう像
 「国運の進展は、国民教育の進行にある」と考え鉄次郎は、老朽化した母校の移転新築を提案し、私財を投じて、完成させた。

  彼は12歳の時より、叔父伊藤忠兵衛のもと、丸紅の丁稚奉公から商魂を鍛え上げ、専務となり、大実業家となる

  =大慈善事業のきっかけを作った人は「治郎八」=
 昭和3年、実弟・義三と7か月欧米視察旅行に出かけた。米国で鉄道王、スタンフォードが私財で大学創設をした経過に感銘を受けた事と、さらに、パリで同郷の薩摩治郎八に会い、パリ日本館(建設中)を視察をしたこと、この2つが学校寄贈のきっかけとなった。

義三も、「個人の財産は無くなるは時日の問題、これは永久に残る」と手記に書いて、校舎の木材を寄贈した。

     <校舎内も、設計者の子供達への思いが、伝わってくる…>




音楽室
アニメ「けいおん」の聖地
イラストの書き込み自由に


鉄次郎の弟義三の
寄贈した建築木材

ドアが開く時の黄色の安全ライン

廊下に校内電話
イギリス産「揚水ポンプ」。日本初の地下水灌漑事業を成し遂げた北川・村岸の功績
これで地下水を汲み上げ全館隅々にスチーム式暖房。
また。ガス設備もあった



手すりのウサギとカメの真鍮像は滑り防止にも

廊下の窓
上部は教室側に、
下部は廊下側に開く

講堂:!Fは傾斜席で
2F席もあり
コンサートにも活用

上下一列が一人分
引き出し式でお掃除
ラクラク

 旧豊郷小学校群の見学を終えたころ、雨が降ってきた。急ぎ足で昼食会場のお店『三羽鶴』へ。
コロナ禍の為、お弁当となりましたが、会席料理のお店らしく大広間で、ゆったりといただきました。
「おいしかったわ~」と一同、満足&満腹で、いざ午後の見学地へ。 
3. 『伊藤忠兵衛記念館』の見学

記念館は、大手商社「丸紅」「伊藤忠商事」の創始者初代伊藤忠兵衛の本家を開放したものです。
明治15年に建てられた伊藤家が生活していた頃がそのままに残されていて、近江商人の活況な暮らしぶりを偲ぶことができました。

  近江商人の筆頭
    初代、伊藤忠兵衛
 1842~1903 
本家における活躍
     八重夫人 1849~1952
「総合商社」の基盤築いた
 二代目忠兵衛
 1886~1973
 
1842年(天保3)繊維品の小売業を営む「紅長(べんちょう)」の家に生まれた。
15才で近江麻布を持ち下る商売をし、長崎で、「開国後の我が国は貿易の拡大によって開かねばならない」と思い、その信念を貫いた
明治5年に大阪に繊維問屋「紅忠」を開き、「社内会議制度」や「本家・店・店員の利益三分主義」「貿易業の進出」など革新的な経営を行った。
61歳で永眠するまで、十数社の事業に関係しながら豊郷町の村長も務めるなど、郷土人からも愛された。
 大阪店の大勢の店員が使用する物をまかなう本家の家事は膨大でした。…米やたばこの選定、味噌や梅干しの漬け込み、布団の仕立て直し、盆・正月の着物の仕立て等。

 しかし内助の功だけでなく仕事のパートナーとして大事な仕事もまかされていた。近江麻布の仕入から発送を管理。数万反の麻布を一日発送する時は、朝3時起きで、一手に取り仕切っていた。
 1903年(明36)、17才で父亡き後、二代目の家督を譲らると、母八重に、丁稚小僧からたたき上げることを言い渡され、5年間地方回りで下積みした。

 1909年(明42)にイギリに留学。、留学中もフランス・ドイツから織物を輸入し、韓国に輸出する等して
  「総合商社」の原点をつくる。
帰国後は、海外の営業拠点作りに奔走した
アメリカから紡績機を輸入して事業を拡大していく
 尚、従業員は大半は江州人を採用した。

<彼の言葉> 
◎三惚れ主義
 在所に惚れよ 仕事に惚れよ 女房に惚れよ

◎商売は菩薩の業(わざ)
 商売道の尊さは売り買い益し、世の不足をうずめ、御仏の心に  かなうもの 「三方よし」の精神
                          
 さらに、最も重要な仕事は、社員教育担当であった。採用された見習いは、まず本家で一か月、八重夫人が店員としての行儀作法やそろばん等必要な教育を施した。その過程で性格・能力や適性を見極め人事の進言もした。また、入店後に問題を起こすと、本家に戻され、再教育を行った。

このような激務の日々を乗り越え、103才まで長寿であった。99才に書かれた墨書が飾られていたが、強健そうな筆使いであった。

付記:古川鉄次郎は、八重夫人の妹の子(甥)である。
1914年(大3)伊藤忠合名会社設立。
     (大7)伊藤忠商事株式会社設立。
        年給から月給へ

1921年(大10)伊藤忠商事と伊藤長兵衛商店が
         合体して丸紅商店」が設立される
1929年(昭4)呉羽紡績設立
1949年(昭24)伊藤忠商事・丸紅・呉羽紡績
           尼崎製釘釘所の四社設立。
1952年(昭27)アメリカ会社設立
1967年(昭42)東京本社・大阪本社2本制など発展

付記①1927年7代目長兵衛、豊郷病院設立
付記②孫娘が河野洋平(政治家)と結婚。

本家記念館に入

歴史やエピソードを聞く

仲間〇さんは、高校時代に
大先輩である忠兵衛さんの
御講演を聞かれたそうです。
 

この日は、寒の戻りで天候には恵まれませんでしたが、誰一人欠席することなく、60代~80代の若人群が、静かな街道をそれは賑やかに歩きました。
西本先生の大切にされる事 「小説に描かれていることを現地を訪れることで、より深くその事象を感じ取る」=を体験できました。
お世話して下さった西本先生と事務局の森先生に感謝します。次回4月8日は高島!
  <その他・想い出のアルバム>


















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